哀しき惜別の便り(生々しいことも書いてありますので気の弱い方は読まないでください)

()内は、注釈で、お便りにはございません。

あまりの苦しみ、悲しみで、冷静に物事を考えられなくおりました。
今、謹んで申し上げます。貴女様に飛んだ邪気は、※かの女性の物にあらず。私を襲ったトラウマのフラッシュバック、壁1つ向こうで親友が、変わり果てた姿になっていた時の。そして皮肉なことに、潜在意識のそれを甦らせたのは、阿闍梨さまからの幾度かの「亡き親友の供養を」という言葉。(亡き親友はさる事情で実家から見放されておりました。裕福な家庭に生まれながら故郷を離れ、1人生保で生きていて、人間不信も仕方ないことでしたが、私のことは心から慕ってくれました。あのコを狂わせたのは、MAX以上に処方されていた抗うつ薬でした。)

あの日のメール…また例の悪い癖か、と差し入れまで買い、向かったのに。
「死斑、と言った…なぜ?これは夢でしょう!?」と叫び、座り込んだ床の冷たさや、
大きな黒いゴミ袋のような物にだけ包まれ運ばれて行った姿や…。
そして「私が殺してしまった」という深い深い自責の念。
トラウマを抱えた者に起こる、自己防衛のための、脳からの指令、表面意識にあっては耐え難い事を、脳が封印していたのです。

私が例の喫茶店常連仲間の※女性から受けた気と格闘していた時、 私の頭にはお寺も貴女様も阿闍梨さまも全くありませんでした。必死でしたから。それに私は、このヒヨコの身ながら、それに討ち勝てたのです。 そして翌日より、その女性に冷静に、懺悔文と薬師如来の真言を書いた紙を渡すことができたのです。(大病を患い久しぶりに会ったその女性は、大きな真言宗の寺のお嬢様として生まれ、世間知らずゆえ、知らぬ間に罪を重ねてしかった方ですし、すでも今生でも苦しんでおられるのです。根は純な方です)
「人の事より、まず自分に関わる事をしないと。それがね、徳を積むということなの。」等々、阿闍梨さまには言われましたが、私は日々小さな徳にはこころがけておりますし、地道に進まないと。せっかく授かった力で他人様に災いを不本意にもたらす、化け物などには、なりとうございません。

ところで、以前のお話になりますが、あのコの3回忌の法要について、阿闍梨さまに相談のお電話はしましたが、多方面から熟考し、私はしないことにしました。阿闍梨さまから後に、「法要どうするの?」とお電話頂きましたが、「3回忌に当たる日、 あのコは私のお尻をポンと叩いていきました。嫌なかんじはありませんでした。」と言いましたら「それならいいが。」で、お話は終わったのです。

なのに、今になり「自分のためにあのコの御供養を。そう簡単に、あんたから離れんよ」とは?

フラッシュバックと自責の念の苦しさに良く考える力も失っていた私。「なぜわたしを追い出そうとするの?」は、弱っていた私の妄想、食欲増加は不穏になっていたから(うつ状態の人や、うつの罹患者は、不穏になると無意識に過食または拒食になることがあります。女性の場合は過食傾向が多いのです。)で、あのコが地獄で餓えていたからでは無い。

あのコと心の対話ができなくなり久しい。また、私はあのコの御供養の話を出されるまで、非常に穏やかで、  大きなものに常に包まれているような安堵の中にいたのです。

だから、 あのコがまだ救いを私に求め、災いをもたらすのは考えにくいのです。 そう阿闍梨さまに申しましたら今度は、「あのコが寺に来るんだよ。だから言っているんだよ。」と。混乱しました。災いの元は、私なのか?と。

阿闍梨さまは、かつて、こうもおっしゃってました「なんだかんだであんた、お金使ってるよ。」
確かに私は、お礼や供物にと、何かと、物を、お送りしてきました。かつて「私達は寺は、決してあなたを見捨てるようなことはしません。」と言ってくださった貴女様、阿闍梨さまの「私は男の目線で見てしまうから、尼さんに何でも相談するといい」と言う進言もあったため頼みにさせて頂いたのですが、
私が※女性の話をして以来調子を崩したから電話も辛いとおっしゃり、阿闍梨さまに代わったので、
「明日の不動明王のご縁日、伺いたかったのですが、私は遠慮するほうがいいですね? 皆様色々な事を抱えておすがりに行かれるわけですから、その弱った心に、邪気が行ってしまっては…」そのように申した私に阿闍梨さまは、「構わないが云々…」と。失礼ながら、阿闍梨さまは早口で、聞きとりづらく、また、そのまま「いいね、切るよ。」で切られ。

悲しみ散々泣き、持っている本の中から懸命に私に必要な言葉を探し、弱々しく真言を唱え、茫然としたまま一睡もせず、体調を崩してしまい、このままではいけないと、言葉にできぬこの気持ちを昇華させるために、こうして懸命に気を張り、惜別の文を書いています。ずっと真に大切にしてきた御守が突然革紐からはずれ、便器なぞに落ちてしまったのも、そちらとはもはや、ご縁無しとの暗示でしょう。かわいそうな御守さん。良く洗いましたが、もう効力はありますまい。最後のお願いです、どうかご供養を。御守りさんのために、私は泣いております。

私が明けの明星の美しさに魅せられ、しばらく風に当たっていた日、 明けの明星を見つめ、宇宙からのメッセージを受ける空海さまの像の写真を、偶然目にしました。
ああ、太陽が見たい!と思った曇りの日、ベランダに出たら、雲間から日光が照ってくれました。
思えば、若き、いいえ、幼き日より、今日と同じ空、今日と同じ海は2度と無いのだと、子供ながら夜のうろこ雲の間を見え隠れする満月の美しさに目が離せなくなり何時間も眺め、自分に「学校あるからな」と言い聞かせて眠ったり、沈む夕日に「お日様ありがとう。また笑ってね。」と言い家に帰ったり…また、父の実家は海まで徒歩3分程ですから、日没前に出かけ、目の前の日本海に沈む夕日、放射状に染まる雲、凪いだ錦の海を愛で、眠る前に昴を仰ぎ…仲良き友達にこそ変人と言われ、歩む道はほぼ険しく、しかし舗装された所より良いと思う私。
弱りうなだれても、神仏は「何も恐れるな」と、温かい慈悲の眼差しで見守って下さっているような気がします。気のせいならば、それでもいい。(あまりに太陽にこがれていたため、裸眼で見つめすぎ、私は若い頃から飛蚊症が激しいのです!バカですね。)

お世話になりました。阿闍梨さまにもよろしくお伝えください。私のことは、お忘れ下さい。私は、私なりに、いつあの世の入口に立たされても  恥ずかしく無いよう、自身を見つめ、時に省み、傲らぬよう、精進します。空海さまご自身で名付けた、真の言葉、真言というものに恥じぬよう。

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